大分建設新聞

四方山

義烈空挺隊

 
2026年10月16日
 爆弾を積んだ飛行機で敵艦に体当たりする特攻(特別攻撃)は知られているが、同じように生還の望みがない敵基地強襲部隊のことはあまり知られていない。第2次大戦末期、米軍に奪われた沖縄の飛行場に爆撃機で強行着陸し、戦闘機などを破壊する決死の作戦が行われた。この中に将来を嘱望された県出身の若者がいた▼「義烈空挺隊」。〝最後のサムライたち〟と呼ばれる特殊部隊である。戦局の悪化で窮地に追い込まれた旧日本軍が起死回生を狙って編成した。1945年5月24日、隊員約120人が分乗した12機の爆撃機が米軍に奪われていた沖縄の嘉手納・読谷両飛行場に攻撃を行った▼読谷飛行場では強行着陸に成功した1機から十数人の武装隊員が飛び出し、爆雷、手りゅう弾で戦闘機などを次々に破壊。米側の記録では、約40機が破壊炎上、損傷し飛行場が一時使用不能になった▼だが、出撃した多くの機は途中で撃墜されるなど戦果は乏しく隊員も生きて帰らなかった。攻撃後はゲリラ戦を行う想定で、隊員には陸軍中野学校で諜報訓練を受けた者、医大卒、英語堪能者らエリートが多数含まれていた。その中の1人で6番機の指揮官を務めたのが現中津市山国町出身の梶原哲己少尉(22)=戦死後大尉=。学業優秀、運動神経抜群で県師範学校を出て教員となり、戦時に中野学校へ抜擢された秀才だった。当時の多くの若者と同じように故郷や親兄弟を守るため命を賭けた▼81年後の今夏、テレビ局の取材に弟の梶原千雪さん(95)=中津市山国町=は「(兄は)頭が良かったからね…」「もったいないような人がたくさん死んどる」と言葉少なにつぶやいた。生きていれば、教育界で輝き活躍したであろう梶原少尉。国の将来を担うはずの有為な若者が無謀な国策で散っていった戦争だった。(マサ)
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